2023年11月例会「近代日本の戦争について考える~満州事変を中心に」

「近代日本の戦争について考える~満州事変を中心に」というテーマで、後藤啓倫(ひろみち)さんにお話を伺いました。 後藤さんは日本近現代史の研究と教育を行っておられる法学博士で、昨年から星槎道都大学で専任講師を務めていらっしゃいます。


 
 1945年の敗戦が近代日本の終わりだとするならば、その終わりの始まりは満州事変でした。満州事変が日中戦争につながり、その泥沼からアジア太平洋戦争に突き進んだからです。満州事変とは1931年9月に始まり、翌年の満州国建国を経て33年の塘沽(タンク―)停戦協定までをさします。柳条湖事件を機に関東軍が軍事行動を開始し、満州一帯を占領しました。


 関東軍の独断専行の気配を察知した陸軍中央は事前にその動きを抑えようとし、事変勃発直後の日本政府は不拡大方針を示しました。しかし、朝鮮駐屯日本軍も独断で合流し事変は拡大しました。


 満州に日本軍が駐屯していたのは、日露戦争で手に入れた南満州鉄道の利権とそれにかかわる日本人居留民を護るという名目があったからです。これに対して中国側は難色を示しましたが、ロシアが利権を持つ中東鉄道防衛の名目でロシア軍が駐屯しており、日本にはこれに対抗する目的と対中国政策により実行力を持たせる狙いがありました。遼東半島南部の関東州は、元来ロシアの租借地でしたが日露戦争後は日本の租借地となり、駐屯する日本軍は関東軍と呼ばれました。しかし、関東州の租借期限は1923年までだったため、第1次世界大戦中に1915年の21か条要求により日本はその期限延長を認めさせました。


 これに対し、中国は21か条要求は軍事的脅しによるもので国際法違反で認められないと主張し、日中対立は1920年代に加速していきます。一方、ロシア革命後のソ連は、1924年の中ソ協定により中東鉄道防衛の軍隊を撤退させることを宣言します。このため中国が日本の関東軍に対しても撤退を求めることが予想されました。


 また、第1次世界大戦でのドイツの敗戦と日本の勢力拡大で東アジアのパワーバランスが大きく変わり、ワシントン会議が開かれます。その際1922年の九か国条約で、中国に関して「領土保全・門戸開放」などが理念として合意されたため、中国が外国権益返還などの声を上げるための環境が整ってきました。さらに、北伐によりひとまずの中国統一を実現した蒋介石は、日本に対して関東州・満鉄の返還と関東軍の撤退を要求するようになり、日本の満州権益の確保が動揺してきます。



 「満州問題」が浮上する中、政府も陸軍中央も権益を返還する考えはありませんでした。しかし、外務省はある程度中国に譲歩して外交による日中の共栄共存をめざしていたのに対し、陸軍中央は外務省との連携とともに関東軍の動きをけん制する一方で軍事行動の必要性と満州での親日政権樹立を視野に入れていました。


 ここに関東軍作戦主任参謀として石原莞爾が登場します。西洋文明を代表するアメリカと東洋文明を代表する日本との世界最終戦を構想していた彼は、日本が東洋の代表となるためには中国本土・東南アジアを勢力下に置くことが必要で、満蒙の領有による「満州問題」解決を考えていました。関東軍内部も軍事力による問題解決を考えており、石原はさらに「謀略により機会を作成」すれば「国家を強引」でき、関東軍が中心になって動くことを考えました。


 結局、柳条湖事件後「居留民保護」を名目に戦線が拡大していく中で、石原の満蒙領有案は退けられ、事件当初には想定されていなかった満州国が建国されたのでした。当時の憲法では統帥権は天皇にあり、天皇直属の軍は内閣や議会の指図を受けないとされていたのです。このため、関東軍は戦闘開始後は統帥権が発動されているという理由で政府の方針に従いませんでした。


 しかし、政府が経費を出さないということで軍を止めることができなかったわけではありませんが、そうしませんでした。当時、政府が国際的に最も懸念していたのは米・英の反応でしたが、米国務長官の抗議にとどまったため、米・英は黙認すると判断しました。
 国内的には1931年には三月事件・十月事件など陸軍幹部によるクーデタ未遂事件が起こっており、政府が関東軍を統制しようとすると国内の陸軍の暴発も考えられました。この点を考慮して関東軍に対処したのです。


 結果、満州国が建国され、それを認めない国際連盟を脱退しました。また、中国が満州国を認めることはなく、日中対立は不可逆点を超えました。その後の満州国を前提とする日本の対中政策と、満州国を認めない中国の対日政策はかみ合うことがなく、8年間にわたる日中全面戦争に至ったのでした。