2021年11月例会 「今年はどんな年②~宮本百合子没後70年、平塚らいてう没後50年」

11月13日(土)団地住民センターにおいて、31名の市民のみなさまの参加で第84回例会を開催しました。

講演のテーマは、「今年はどんな年~宮本百合子没後70年、平塚らいてう没後50年」。

講師は木村玲子さん。木村さんは元高校教師で、昨年(2020年)イトムカ鉱山での中国人強制労働についてお話していただきました。

木村さんは、「宮本百合子を読む集い」に参加して宮本百合子の作品を鑑賞しているだけで二人を研究しているわけではないとおっしゃっていました。しかし、今回ご自身なりに調べたことをもとにして、「宮本百合子」と「平塚らいてう」それぞれの生涯について話していただきました。


 宮本百合子は、1899年に建築家の父と倫理学者の娘である母との間に生まれました。厳格な母との葛藤があったようです。小学校の頃はピアノを習って音楽家を夢見たようですが、やがて読書に没頭するようになります。女学校時代には小説も書き始めます。

 やがて母の干渉から逃れるために父の渡米に同行し、まもなく東洋語研究者の荒木茂と結婚して帰国します。しかし、義両親との同居は不和で、世俗的で平凡な安住を求める夫との生活では作家としての自由な精神の発展は得られないとして、代表作の一つ「伸子」の執筆中に離婚します。

 その後、湯浅芳子と共同生活に入り、二人でソ連へ向かいます。革命後10年を迎えて社会主義建設に向かう女性の姿に感銘を受けたようです。また、ゴーリキーとも会って「誰のための作家か」と考えるようになりました。パリでは「資本論」を学習しています。

 
 帰国後、日本プロレタリア作家同盟に参加し旺盛な作家活動が始まります。まもなく宮本顕治と知り合い結婚します。しかし、昭和初期の軍国主義の台頭のなかで顕治は非合法生活を余儀なくされます。百合子自身も検挙されます。この頃から健康を害していきます。
顕治が無期懲役の判決を受けて網走刑務所に収監されると、自らも網走行きを決意しますが実現しませんでした。 

 
 敗戦後、治安維持法が廃止されて顕治が釈放され、百合子の執筆活動も活発になっていきました。新日本文学会創立に参加し「新日本文学」創刊号には「播州平野」を寄稿しています。その後も「風知草」「道標」などの作品を次々と発表していきますが、検挙・投獄の繰り返しで蝕まれた健康は回復せず、1951年に51年の生涯を閉じました。

 
 平塚らいてうは、1886年に厳格な官僚であった父と母との間に生まれました。
 なお、宮本百合子も平塚らいてうも年齢には差がありますが、ともに誠之小学校・お茶の水女学校に学び、女学校の「良妻賢母」教育に反発しています。
 平塚は日本女子大学校時代には哲学・宗教書を読み漁り、女子英学塾・二松学舎・成美女子英語学校で英語を学びます。また、22歳の時には森田草平と心中未遂事件を起こしました。
 その後、青鞜社を設立し、雑誌「青鞜」に「元始女性は太陽であった」で有名な創刊の辞を寄稿しています。自立する女性として生きていくことになります。当初は心の内面に関するものでしたが、やがて消費組合運動や婦人参政権運動など「協同」の方向に関心が向かっていきます。


 太平洋戦争中には疎開して沈黙したような時期もありましたが、戦後は日本国憲法に共鳴して平和への関心を強めていきます。日米安保条約に抗議して再軍備反対婦人委員会を結成し、「非武装国日本女性より米国上院議員諸氏に訴える」書簡を96人の米上院議員に発送しています。その後も国際平和を求める運動を活発に続け、新日本婦人の会を結成し代表委員となりました。そしてベトナム戦争がまもなく終わろうとする1971年に85年の生涯を閉じました。

(木村玲子さんに2020年9月例会でお話していただいた「イトムカからのメッセージー徴用工問題を考える」はこちらからご覧いただけます。)