「いま生きているのが不思議」 都築 忠

ここにセピア色に染まった1枚の写真があります。
前の方、横一列に並んでいるのが特攻隊員です。後ろの方にちらっと写っているのが作業中の私です。

昭和19年、茨城県鉾田飛行場で撮られたものです。
この写真、「よく残っていたものだ」と今でも思います。20歳代と思われる若者たちの戦闘服姿のりりしい顔立ち。出撃命令が下れば、いつでも出発できるという覚悟がうかがえます。

だから、私自身も特攻隊の生き残りと思っております。厳密に言えば、特攻機のパイロットではなく整備士なので、操縦桿は握らなかったけれど、いつも機と向かい合い機と一体となっていたので、いつ死んでもおかしくない、と思っていました。

私は愛媛県の宇和島出身です。1926年(大正15年)生まれで、普通の少年時代をおくっていましたが、日本が戦争の道を歩むにつれ、男子なら当然のごとく兵隊として「国に一命を捧げる」時代になっていきました。それならば、と機械整備の学校に入り、卒業後の昭和18年、18歳のとき、茨城県の鉾田に行きました。

爆撃機の整備が私の仕事です。鉾田は特攻隊の基地であり、パイロットや通信士、整備士が大勢いて、私は特攻機一機まるまるの整備責任者となり、また整備の仕方を他の兵士に教える教育係も担当していました。

鉾田飛行場から戦地へ飛び立った隊は万朶隊、私が所属した皇魂隊、それと鉄心隊などでした。通常、隊は12機を1隊として編成されます。各機に操縦士と整備士が各1人、それに隊長機には通信士1人が配置されていました。

1944ねん(昭和19年)11月29日、私を乗せた特攻機は鉾田を後にして、途中給油を受けながら、フィリピンのレイテ島クラーク飛行場に着きました。そこで、私はこの特攻機がいつでも出動できるよう、改めて整備をしました。通常、整備士は南洋の島々で、これら本土から送り込まれた爆撃機を再整備し、任務終了後、輸送機で再び本土に戻り、次の戦闘機の出撃準備をするという慣わしでした。

しかし、このときは既に戦況が著しく悪化していて、アメリカのグラマンがフィリピンの上空を制覇していました。私たち整備士を迎えに来た輸送機は飛ぶことが出来ませんでした。台湾まで自力で脱出すれば本土へ帰ることが出来るという話が隊内に流れていましたが、レイテ島から台湾までの輸送船や貨物船を見つけることが出来ませんでした。後から分かったことですが、制海権もとうにアメリカに渡っていて、空からも海からも援軍など来られる状況にはなかったのです。

島内に取り残されたその後は、まさに筆舌に尽くしがたい地獄図絵そのままでした。初めのころは食料がまだ残っていたので、それほどでもなかったのですが、すぐに食料は底を尽き出しました。アメリカはすでにサイパン島を攻略していましたので、ほどなくレイテ島にも上陸を開始してきました。日本本土からの救援物資、武器弾薬はおろか食料、薬などは望むべくもなく、着の身着のまま島の奥へと逃げまどうのみでした。

上官は「怪我をして隊についてこられない者は自決せよ。自決できない者は銃殺せよ」と命令しました。誰も上官の命令に背くことはできません。私たち整備士や通信兵は銃すら与えられず、「小銃を持っている誰かに借りろ」と、自分の命を自分で始末することすら叶いませんでした。隊に遅れを取らず、ついていかなければ、と皆必死の思いでしたが、水も、食料も何もない地獄の逃避行の中で、草陰や木の根元にうずくまり、立ち上がることができない者が出てくるのは時間の問題でした。

しかし、今まで行動を共にしてきた仲間を銃殺することなんて、もちろんできません。といって自分たちの肩を貸し、仲間を助けることは共倒れの死を意味することでした。倒れた仲間も誰も助けて欲しいとは言いませんでした。

皆分かっていました。
動けない者はいずれ米軍に見つかり撃たれるか地元のゲリラに襲われるかの、どちらかでした。自害する術すら持ち合わせていない人は、そのまま隊から置き去りにされました。

逃げ惑う日々の中で、負傷した仲間に銃殺命令が下りました。その人は、突然私たちの前から姿を消しました。隊は既に解散状態でした。何日か経ち、火を起こして、わずかばかりの食料を煮炊きしていると、ふっと、前ぶれもなくその人は私たちの前に現れました。

「どうしたんや」と聞くと「あっちにいた」との返事。「お前に銃殺命令が出ているぞ」と教えると「そうか、わしにも何か食わせてくれ」と言い、飯ごうと少しの米を差し出してきたので、お粥を作ってあげました。

その後、米軍に見つからぬよう火の始末をし、また山中へ逃げる算段をしていると「わしも連れて行ってくれ!あの集落を越えるところまで」と言うので一緒に逃げました。彼とはその集落を越えたところで別れました。1週問ほど経ってから、再びその場所を通りかかると、その人が亡くなっているところを目にしました。

私たちは軍属であったため、それなりの覚悟がありましたが、島内に住んでいた邦人一般の非戦闘員はもっと悲惨でした。日々逃げ惑う山中で1組の母子に会いました。小さな子どもが白いご飯が食べたいと母親に訴えていました。

もうしばらく誰もそんな食べ物なんて見たことがありません。母親は「死んだら白いご飯が食べられる」と坊やを説得していました。今思い出してもぞっとします。平和な島で生活していたのに、突然の戦争に巻き込まれ、準備をする間もなく米兵やゲリラから身を隠さなければならなかったのです。

あるとき、「鉾田の者いるか!」と声がかかりました。
「何だろう」と思いながら名乗りでると「加藤軍曹が白決した。穴を掘れ」という命令がありました。そこに居合わせた鉾田特攻隊の仲間たちと穴を掘りましたが、地面が硬くなかなかスコップが土に入っていきません。やっとの思いで人の身体が横たわるほどの穴を掘り、遺体を置きました。

遺体が隠れる程度の土をかぶせたところで、「もう逃げろ、米兵がいつ襲ってくるか分からん」との命令が下り、十分な弔いをすることも出来ず、再び山中へ逃げ込みました。

米兵に見つかりやすい日中を避け、川の水を飲みに行く仲間もいました。暑さでのどが渇くのです。でもその水はアメーバ赤痢に汚染されているのでしょう。朝になると毎日のように、何人かが腹をこわしてもだえ苦しんでいました。

もちろん薬などはあろうはずもなくただ傍観するしかないのです。食料は既に食べつくし、島内の草を食べたり、小動物を仕留めて口に入れました。隊はいつのまにか散り散りになり、三々五々仲間と一緒に行動をするようになっていました。

戦況は全く分かりませんでした。隊は壊滅的な打撃を受け、ただアメリカ兵の銃撃を避けるために野山をさまよっていました。昼は木の根や洞で体を隠し、夜になると少し歩き、何か食べ物を探しました。どれだけこうしていればいいのか、いつまでこれがつづくのか誰にも分かりませんでした。櫛の歯が欠けるように、一人ずつ去っていき、息絶えていきました。飢えとマラリアとの戦いでした。

栄養失調の私は、昭和20年4月27日、マラリアとアメーバ赤痢にかかり、野戦病院にかつぎ込まれました。病院といっても名ばかり、単なる掘立小屋で、薬はなく寝ているだけでした。不衛生から、しらみがいっぱいいて、息絶えるとその死体からしらみが動き出し、次の体の弱っている人に取り付きました。はじめのうちは穴を掘って、死者を埋葬していましたが、上空からの攻撃目標となるため、それも出来なくなりました。

後になって分かったことですが、鉾田特攻隊の仲間、50十人中3人しか生き残ることが出来ませんでした。今生きているのが不思議なぐらいです。ただ運が良かった、としか言いようがありません。

9月15日、レイテ島で終戦を迎えました。アメリカ軍が上空から撒いたビラを見て、戦争が終わったことを知りました。(松葉町84歳) =聞き書き 日諸まり