私と戦争、私と日本国憲法

 私は駒ヶ岳大噴火があった年、1929年(昭和4年)に生まれました。駒ヶ岳噴火は20世紀に日本で起きた噴火の中でも最大級といわれるものでした。私の波乱の人生は駒ヶ岳大噴火から始まったと言えると思います。

 子ども時代は戦争の時代でした。父は戦争が終わる前の年に、若くして急性肺炎で亡くなりました。当時、薬が手に入らなかったことも亡くなった原因の一つだと思います。父の妹は薬剤師の家にお嫁に行っていたのですが、多くの薬が軍に持って行かれていたので父の妹を頼っても薬が手に入らなかったのです。

 今だったら亡くなることはなかっただろうと思います。陸軍に関係したことでは函館に千代台公園がありますが、戦時中はそこに陸軍の営舎がありました。戦争が終わると陸軍の幹部たちは食料をトラックに積んでいち早く逃げて行ったと聞いています。市民の生命や生活よりも軍の方が優先されていた時代でした。

 私の生き方を変えたのは15歳の時の空襲です。1945年(昭和20年)7月に北海道空襲{注}がありました。

 昼ごろ外にいたとき突然の空襲がありました。上をちょっと向くと軍用機(グラマン)の下が開いたので爆弾が落ちてくると思ったけれど、逃げる場所もなくとっさに轍(わだち)に顔を伏せました。飛行機が遠ざかっていく姿と周囲に砂煙が舞い上がったことを覚えています。私のすぐ横50㎝位のところには機銃掃射でできた跡が残っていました。

 私は「生きていた!!」と思いました。そして戦争の恐怖を強く体感しました。実は、この日の空襲に遭うまで、私は軍国少女でした。「男だったら少年兵としてお国のために戦います」と作文に書きましたし、戦意高揚に寄与するような絵を描いて校内展覧会で入賞したこともあります。

 それから1ヶ月たち終戦を迎えはっきりと戦争を否定するようになりました。そして次の年に新しい憲法が公布されました。戦争の下で生きるのではなく「平和のうちに生存する権利を有すること(前文)」が高らかに確認されたことに感激し心からの共感を覚えました。

 私に一つ誇ることがあるとしたら、それは選挙を棄権したことがないということです。戦後最初の選挙(1946年4月10日衆議院選挙)の時はまだ20歳になっていなかったので投票できませんでしたが、20歳になってからは一度も棄権することなく投票しています。

 戦前は女性には参政権がありませんでした。新しい憲法に「すべて国民は、法の下に平等(第14条)」「両性の本質的平等(第24条)」「成年者による普通選挙を保障(第15条)」が明記され、女性にも参政権が与えられました。

 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する(前文)」ということを胸に刻みながら、生きている限り棄権しないで投票します。(A.S) 聴き取り・文責(R.S)

{注}北海道空襲
 アメリカ海軍が1945年(昭和20年)7月14日から15日にかけて北海道各地で行った空襲の総称。一般市民を中心に死者2,000人を超える被害を出した。

 函館では、第38機動部隊から発進したグラマン50余機が7月14日早朝午前5時ごろ、横津岳(亀田郡七飯町にある山)方面から飛来して、午前11時ごろまで波状攻撃を繰り返した。

 アメリカ軍の主な狙いは、港内および津軽海峡を航行中の連絡船であったが、一部市街地にも爆弾が投下され、機銃掃射も行われた。さらに午後1時43分頃にも第2波の攻撃によって、警戒警報、続いて空襲警報が発令され、午後4時20分に空襲警報が解除されるまで、グラマン約30機による攻撃が続けられた。

 機銃掃射や爆弾の投下によって、西部地区の一部、現在の弥生町周辺では火災が発生して、約400戸の住宅が罹災し、全市で少なくとも79名の死亡が確認されている。(総務省ホームページ「函館市における戦災の状況」による)