「旧陸軍北広島通信所の実像を追ってーシンポジウム(2015年11月)の記録」掲載にあたって ー編集委員会

 ―援「ソ」機ノ空輸ハ本月モ実施セラレ
 ―米ソの無線傍受月報
 ―終戦直前 北広島陸軍通信所が作成 高い暗号解読能力

 こんな見出しが躍ったのは、2015(平成27)年8月14日付け北海道新聞の朝刊一面トップでした。太平洋戦争末期に、旧陸軍北広島通信所が米ソ間の無線を傍受していたと大々的に伝えました。防衛省に眠っていた史料の中から見つかったもので、旧日本軍の情報活動の詳細を知る戦争史料として注目を浴びました。
 通信所が扱った傍受電報は、旧ソ連分10,967件、米国分35,231件に上り、解読できたのは、旧ソ連分8,288件、米国分5,159件。この中には、米軍の旧ソ連への援助物資輸送に協力することが読み取れるものもあります。
 「六月二六日以降開始セル(略)空輸ハ本月モ引キ続キ実施セラレ(略)二九日ヲ以テ終了約五〇機ヲ空輸セリ」
 1946年7月14・15日の北海道空襲については、「敵第三艦隊長官指揮ノ機動部隊北海道地区ニ来襲(略)九日頃『アッツ』付近ヲ出撃、右作戦ニ参加セル疑アリ」などと報告しています。
 また、米国は戦争を早期に終結させるため、旧ソ連に対日戦の分担を求めており、旧陸軍は米ソの暗号電報などにその端緒を探っていたものと思われます。
 参謀総長直属の旧陸軍北広島通信所が、当時軍馬の繁殖育成が行われていた北広島市共栄の北の台一帯に開設されたのは1943(昭和18)年春のことでした。周囲にまだ残る原始林の中から3基ほどのアンテナが見えたそうです。通信機器を備えた平屋の建物、これに隣接して軍人、軍属の住宅があり、100人を超す人が配置されたようです。この施設は、敗戦とともに、証拠を隠滅するため、隊員や地域住民らによって取り壊され、武器、弾薬は千歳川に投棄されました。
 北広島九条の会は、毎年夏に行っている「北広島の戦争遺跡を巡る」バスツァーで、この通信所跡を訪れています。現在は北の台小学校の校舎が立っているところです。施設に張り巡らされた地下壕の出入り口は東共栄2丁目の道道江別恵庭線沿いの崖にその痕跡を見ることが出来ます。
 この特別企画は、北広島九条の会が2015(平成27)年11月に開いたシンポジウム「旧陸軍北広島通信所の実像に迫る」を再構成して、市民が語る戦争体験「バトンタッチ」第8集誌上に再現するものです。「あの無惨な戦争は二度と起こしてはならない」と、戦争体験者の叫びを未来に語り継ぐ小冊子の使命から、戦時下の国家の情報活動の実態を考える契機にしたいと思います。こうした施設が、身近なところに入り込んでくる、いつあなたの生活に突然入り込んでくるか分りません。72年前のその時を改めて考える機会にしたいと強く願うものです。