「緊迫の脱出」  三浦 耕

歌が好きな軍国少年

1933年、樺太庁敷香町(現サハリン・ポロナイスク)で私は生を受けた。男ばかり6人兄弟の末っ子だった。このころは富国強兵政策のさなかで、男6人を生んだ母は「軍国の母」として、日本政府から表彰されたとのことである。幼少の頃から私は歌が好きだったそうで、母に手をひかれながら、大きな声をあげてよく歌って歩いたちしい。通りすがりの人たちによくほめられていた、とのことだった。

父は王子製紙株式会社社員で、敷香工場に勤務していた。王子購買所(今で言うコープみたいなもの)の所長をしていたこともあった。戦時になっても「王子のご威光」で、物資にはまったく不自由しなかったと聞いている。

母は調理・和裁に優れ、大きな呉服店の仕立ての内職をしていた。高級着物の仕立ては、万が一にも、汚したら大事になるので、仕事部屋に入ることは許されなかった。料理は和・洋・中万能だったという。王子製紙本社など、本州(内地)からの役員や貴賓が来ると、甲クラブという賓客接待用の宿泊施設に泊まることになる。その際には、特に乞われて料理人たちの相談にのり、調理させていたと聞いている。

1941年12月、私が小学校2年の時、日本は「大東亜戦争」に突入した。軍国主義教育の真っ盛りで、私も健気な軍国少年だった。残念なことに虚弱体質で、体力増強のため、夏の林間学校に連れて行かれた記憶が残っている。

樺太が日本領になって以来、ソ連と日本の国境近くの気屯(スミルヌィフ)というところに、大規模な陸軍駐屯地があった。毎年同じ時期になると、下士官クラスの軍人が数人、その駐屯地から私の家に遊びに来て泊まっていた。なぜそのようなことになったのか、理由は分からない。調べると、敷香・上敷香を中心に、かなりの軍隊が配置されていたようである。

少学校5・6年生の時、軍人上がりの担任教師にその駐屯地へ、私は連れられて行った。陸軍記念日の慰問のためであった。資料によれば師団となっているが、とにかく大勢の軍人の前で、軍歌や文部省唱歌などを何曲も独唱させられたのだった。もちろん行く前の1ヶ月間ほどは、放課後一人残されて特訓を受けなければならない。「こわーい」先生で、本当に必死に唄ったものだった。

そのころ、敷香町で一度だけ空襲警報のサイレンが鳴り、騒然となったことがあった。空襲ではなかった。敷香町海岸沖にソ連の潜水艦が浮上し、艦砲射撃をしたとのことであったが、事の真相は定かでない。すべて軍事機密で、下手なことは話せない時代であったから、ひそひそ話の噂の域を出ない。だが戦時と言っても、樺太はさほど緊迫感はなく、平時と変わりない雰囲気があった。もちろん小学校でも、軍事教練めいた教育内容があった。モールス信号は教科で、手旗信号、整列・並び方・行進など集団行動は、体育の時間に訓練させられた。

援農もさせられた。敷香町の辺縁に位置する農家で、往復路、軍歌を高唱しながらの行進であった。灯火管制はあり、ガラスには飛散防止の新聞紙が張られていた。しかし大本営の発表通りに、「日本軍は連戦連勝、赫々たる戦果を挙げている」と、信じきっていた。まして、ソ連との間に「日ソ中立条約」があるので、ソ連が攻めてくるなどと、大人は誰も考えていなかったのだろう。

慌しく疎開の指示下る

私が小学六年生だった1945年8月のある日、担任教師があわただしく教室に入ってくるなり、「すぐ帰宅し、荷物を持って駅(敷香)に集合するように」と伝えた。ある日とは、今から逆算すると、8月12日か13日になるが、断言はできない。2学期が始まっていたのか、それとも夏休み中で臨時に登校させられたのか、そのどちらだったかは記憶に無い。家に着くと、着替えとか食糧など、当座必要なものをリュックサックに入れて、母は待っていた。小学校六年だから、その母の様子がただならないものであることを察知した。しかし、「耕ちゃん、疎開することになったが、お前一人なので、後は友達と一緒に先生の教えに従いなさい」と言われただけだった。

何がどうなったか分からぬまま、我ながら健気に一人で駅に向かった。駅には敷香第三国民学校の児童だけが集められたようだった。何時間か待たされた挙句、教師たちが来て、「もう一度家に帰り、今度は母親と一緒に再度集まるように」と私たちは指示を受けた。家では、父や母、次兄(王子製紙勤務)と五男の兄(旧制中学三年在学中)がすでに帰宅していた。大きな風呂敷包みやリュックサックをいくつか、父母は用意していた。

父は記念になる樺太や家族の写真を用意していた。これらの写真はすべて今も私の手元にある。余談になるが、その中には日・ソ国境の碑や、敷香町「オタスの杜」の写真などがある。「オタスの杜」の写真には、オロチョン(蔑称だったかも知れない)と私たちが当時呼んでいたオロッコ族、トナカイ、そして父などが写っている。「オロッコ族」は、「ウイルタ」と自称していたと文献にある。

このとき、「女と子どもだけが内地に引き揚げ、中学生以上の男は防衛のために残る」と教えられた(当時樺太では、樺太以外の本土を内地と呼んでいた)。予想すらしなかった危機への不安や、親・兄弟別離の悲しみからか、現地に残る父や二人の兄たちの顔はこわばり、青白く見えた。母と私は駅に向かった。

駅前の広場に教師たちが待ち受けていた。母親や小学生たちが全員集合したところで、「汽車に乗って大泊(現コルサコフ)に行き、北海道へ渡る」と、校長に告げられた。汽車の到着を待ったが、ほぼ一日近い時間待たされた記憶がある。列車の都合がつかなかったのと、国境近くの住民を収容するために遅れた、とのことのようだった。

どうにか汽車は動き出した。車中はすし詰めで、文字通り立錐の余地もない。8月15日、列車は落合(現ドリンスク駅)に停車した。時刻は定かでないが、車内放送のカリカリとか、波のようなザーザーいう雑音の中で、途切れ途切れの甲高く耳なれない声が聞こえてきた。何を話しているのか、子どもの私に理解のつくものではなかった。その内に、大人たちの号泣があちこちに聞こえるようになった。母に聞いたところ、「天皇の玉音で、日本が降伏したらしい」とのことだった。

進むか戻るか、悩む母

このあとどうなるのか、私にはまるで予想もつかぬことだった。だが、事態がただ事でないことだけは感じられた。北海道にこのまま行くのか、あるいは家族のいる元の場所に戻るのか、それぞれの母が選択することを、恐らく求められたのではなかったか。

取りあえず豊原市(現ユジノサハリンスク)の親戚のもとに行き、その親戚と行動を共にすることを、母は選択したようだった。私たちは豊原駅で下車した。豊原の親戚とは、母のただ一人の姉で、私の伯母にあたる。天理教の教会長をしていた。その姉の感化を受け、母も熱心な信徒だった。

そこで1泊し、出立の準備をした。伯母、従妹4人、その従妹の養子の幼児、それに母と私の総勢八人であった。翌日、それぞれ必要な荷物に加え、数日分の食糧を持ち、来るか来ないか、全く当てにならない汽車を待つために、豊原駅に向かった。あとに残されたのは伯父ただ一人だった。

駅について、どれほどの時間が経過したか記憶にない。何とか救いの列車が到着した。それは上敷香から来た列車で、どうやら国境近い辺地から、最後の婦女子を乗せてきたようだった。大泊(現コルサコフ)港に着いたのは1945年8月17日だった。駅から波止場(岸壁)まで駅員に誘導され、そこで船を待つように指示された。駅員も殺気立っていたように見えた。船がいつ来るのかは全く不明とのことだった。

ようやく引揚船が来たが

とにかく大泊港に着いて船を待つだけだったが、船の来る気配は一向にない。そのまま全くの野晒状態で、4日3晩岸壁のコンクリートの上で待たされたのであった。そして遂に大きめの船が三隻入港してきた。その日は1945(昭和20)年8月20日だった。

駅員と船員たちが、引揚者たちの長い行列を整理し始めた。この時の引揚者たちは整然と指示に従い、乗船していった。私たち一族は列の後尾に近い方であった。どうにか三番目の船に乗れそうな様子になったとき、私たちの数家族前方で、何か異常が発生した。大きな人々の抗議の声が聞こえた。憲兵の腕章をした、尉官クラスの軍人が自分の家族を割り込ませようとしていたのである。乗ろうとしていた後ろの家族たちは当然必死に抗議をした。

するとその軍人は、やにわに軍刀を抜いて、「貴様ら、帝国軍人に刃向うか」と個喝したのだ。人々は沈黙し、その一家は軍人を除き乗船していった。そしていよいよ私たち一族が、荷物を持って進もうとしたとき、再び問題が発生した。今度は船員と駅員の間での指揮権をめぐる争いだった。「満員になり、これ以上乗船できない」と、私たちのところで船員が締め切ったのである。それに対し、駅員は、「まだ甲板に空きがある」と、食い下がってくれたのだ。しかし結局船員の指揮に従わざるを得なかった。

非常事態、針路を稚内へ

その後、いつ来るとも知れない次の船を、私たちは再び待つことになった。時間がどのくらい経過したか記憶にないが、とにかく小さな軍艦みたいな船がようよう入港してきた。それはどうやら小さな駆逐艦のようであったが、今となっては確かめようがない。時が時なら、誠に威風堂々、勇ましく感じたことだろうと思うが、そのときはただ心細い限りだった。

船首甲板には、何か薦と荒縄で巻かれたものが見えていた。荷物を持ち、迎えに来た船員(多分水兵さんだと思うが)の後に続いてタラップを登り、私たちは乗船した。案内されたのは兵員用の狭い船室だった。何とか出航の時を迎えた。後ろには、私たちより奥地から来た人々の、次の船を待つ列がまだ続いていたようだった。ただ不思議なことに、この私たちの乗った船についての記録は、私の知る限り無いようである。

海は荒れ、幅の狭い船体は揉まれるように、ピッチングとローリングを繰り返した。いつ治まるともわからない揺れに酔い、私たちは激しく嘔吐したが、一物も入っていない胃袋から出るのは、ただ黄色い胃液だけだった。

事情が分からないながら船内がにわかに慌ただしくなり、怒号が飛び交う中で乗組員たちが走り回る音を、私たちは聞いた。間もなく、艦内放送が非常事態で戦闘準備に入ったことを告げた。そして函館に向かうと聞いていた針路を変更し、稚内に直行すると知らされた。

この時はまだ先行した三船が何者かに攻撃されたことを、私たちは知らなかった。とにかく大きな異変が起きたことだけは明らかだった。その後、小さい船は高速に加え、大変な高波にもまれ続けた。どれほどの時が経過したのか、私は知らない。とにかく突然と言ってよいほど船は穏やかになり、静寂を取り戻した。しかし船は着実に進んでいた。やがて静かに停船した。指示に従い、荷物を持って甲板に誘導された。そこが稚内港であった。ふと見ると、薦と荒縄でぐるぐる巻きにされていた例のものが目に入った。それはあまり大きくない艦砲だった。あるいは機関砲だったかも知れない。艦上で騒然としたときは、戦闘準備に入ったためだったのだろう。それで急遽針路を変え、稚内に直行したのだ。

先行の三船は悲惨な運命

先に出航した三船が留萌と増毛沖で攻撃され、多くの尊い命が奪われたことを知ったのは、そのずっとのちの事だった。例の憲兵将校の家族がどのような結末を迎えたのか、私は知らない。恐らく他の乗船者と同じ運命を辿ったのだろう。

私が敷香を発ったときには、同級生や下級生など、王子関係の子女は恐らくほとんどが揃っていたと思われる。途中親戚と合流するために、私と母が豊原に降りたことは既に述べた。このために、大泊港の岸壁に私たち一行が並んだ時点で、ほとんどの王子関係の子女が列のはるか前方で待機していたことは間違いない。先に到着していた人たちと私たちとの間には、優に一日の時間差があったからである。

したがって彼らの大方が、その攻撃された三船に乗ったと思われる。後の話になるが、王子製紙江別工場の仮の引揚者宿泊施設に、母と私が落ち着いたときには、敷香第三国民学校の同学年の児童や下級生の姿はあまり見られなかった。はっきり覚えているのは、同級生の二人だけであった。残念なことだが、恐らく多くの児童が、悲惨な運命に遭遇したに違いない。

私たちは下船し、桟橋から駅に連れられて行った。そこには長い貨物列車が
待っていた。その多くは木材を積むための無蓋車だった。私たちが乗ったのも
それだった。腰の低い板を回されただけの、無防備な台車だ。すべての人が女
性・子どもだけのようだった。流言飛語の類(たぐい)と思うが、無蓋車から落ちた人がいたとか、子どもを何人も連れた母親が、世話をしきれなくて、ほかの人に知られないように途中で捨ててきたとか、いろいろ悲惨な話を聞かされたものだった。

列車はそれでものろのろと進み、多分ほぼ一昼夜近くかけて函館に着いたのだと、今にして思う。着いた時、明るい陽射しを見た記憶があるからである。函館港の桟橋、駅舎、ホームの屋根と壁などは、弾痕だらけだった。トタン屋根などは、ぼろぼろに垂れ下がっていた。よほど激しい機銃掃射を受けたのだろうか。それでも函館港の桟橋に移動し、どうやら乗船することができた。もちろん何という船か、どんな船だったか記憶にない。

飢えと渇きの中、青森に

とにもかくにも青森に着いたのは、奇跡に近い出来事だったと、今でも思われる。青森も青空だった。それにしても飢えと渇きには苦しんだ。なにせ大泊港の野晒しの待機状態に入って三日目あたりから、口にしたものは無かったのである。豊原を発つときに用意した二日分程度のお握りと水筒の水は、とうに無くなっていた。四日三晩の後半と引揚船、そして函館までの列車と青森への船申、その間まったく食べていない。

目的地に行く列車の待ち合わせの時間、市街へ食べ物を探しに行こうと、私たちは青森駅から外へ出た。出た瞬間息を呑んで立ちすくんだ。見渡す限り一面、全くの焼け野原だった。食べ物どころの話ではない。やや離れたところに土蔵だったか、焼け残っているのが見えた。そのあたりまで行くと、何か丸く焦げたものが見えた。カボチャの焼け残りだった。母が蹴飛ばすと、それは転がった。重さを感じたと母が言って拾い上げると、焦げ臭いが、それでも香ばしい匂いがした。中は何とか食べることができるものだった。もちろん大きなものではなかったが、八人一同で食べたことは言うまでもない。

ところで、私たちが向かおうとしていたのは、秋田県の大館市にある親戚の家だった。豊原に残った伯父の実家と聞いた記憶があるが、確信はない。今となっては伯父・叔母に尋ねようもないが、大きな割烹の旧家だった。そこに八人が寄留した。営業できる時代ではないから、大きな部屋がいくつも空いていて、そのいくつかを使わせてくれた。さて、もちろん敗戦直後で、食糧難のときであるから、食べものを不自由無く私たちに融通してもらえるわけがない。その間、山へ栗を拾いに行ったり、水田でイナゴ取りをしたり、あるいはカボチャのツルなどをもらいに行くなどと、食糧確保のため必死に歩き回る毎日だった。何とか飢え死にせず、生き延びた。

もちろん引き揚げの時、学習用具や教科書など持ってくるわけもなく、また緊急事態で、転校手続きをすることもできなかった。したがって、学校には全く行っていない。その間、ただ食べ物探しに連れられて、歩き回る毎日だったような記憶が残っているのみである。

やっと「戦後」が始まった

一九四五年十二月、叔母一家が、北海道士別市の天理教信者の許に行くことになった。同時に、母と私も、王子製紙の関係で江別に行くことになった。多分、王子製紙江別工場に勤めていた長兄の消息が分かり、連絡がついたためだったのだろう。長兄は当時の札幌商業学校を卒業、江別工場に就職していたのだった。そこで召集され、敗戦のためかろうじて生きて戻ることができたのである。江別に私たちは到着し、先に述べた引揚者用の宿泊施設に案内された。その施設とは、江別にあった航空機製作所の寮だったようである。ご存知の方も多いと思うが、そこでは木製の航空機を作っていたとのことである。

ともかくも大部屋で、大勢の人たちと雑居した。食事は三食給付された。量は少なかったし、主食は大根の葉などいろいろなものを混ぜたご飯とかお粥に、暖かい味噌汁と惣菜一、二品程度だったが、それでも美味しかった。長兄の社員住宅が当たるまでの辛抱だ、ということが分かっていたので、苦にならない。有難いことだった。転入学先は江別第三小学校で、大方は王子製紙工場関係の子弟だった。もちろんその地域にも農家など一般の住民もいたから、何とか友達もできた。北海道の子どもたちには、樺太から来た私たちの言葉が異様に聞
こえていたようで、説っているとよく笑われた。

どうにか社宅も当たり、引っ越した。三男と四男の兄もすでに復員していた。三男の兄は豊原中学校在学時、陸軍に召集された。どこに派遣されていたかは、わからない。四男は敷香中学校在学中、海軍航空隊「甲種予科練」に合格し、霞ケ浦土浦航空隊に所属していた。幸い戦場には行かなかった。

翌一九四六年三月、私は最後の旧制中学校を受験し、不思議なことに合格した。敷香の小学校を離れておよそ四カ月。まったく勉強の「べ」の字もしていなかった私が合格したのは、信じがたい僥倖としか言いようがない。(みうらこう81歳大曲南ヶ丘)